■繭と蚕の歴史
繭や蚕の歴史はどのようにして誕生したか、日本文学の中に出てくる繭や蚕について、そして繭の過去と未来のタイムトンネル!!
絹の起源
絹の起源については、今から5000年程前、中国の殷代に黄河のほとりで始まったいわれています。伝説じみた話が数多く、一説では、中国の祖と崇められている黄帝の皇女が、繭をもてあそんでいて湯の中に落とした時、それを拾い上げたところ、繭から糸が操り取られた話、これが絹の発見であるという話が有名です。
また、中国の「蚕経」によると黄帝の妃の西陵が、養蚕、製糸、織物の技を侍女に試みさせたとあり、これが絹を世間に広めた最初ともいわれます。いずれにしても、紀元前3000年頃の山西省夏県西陰村(かけんせいいんそん)遺跡から繭殻が出土しており、また紀元前2700年頃の浙江省呉興銭山漾(ごこうせんさんよう)遺跡から絹布が出土していることから、この頃に絹が使用されていたのは確かなようです。
我が国に養蚕技術が伝わったのは弥生中期後半(紀元前後)といわれ、朝鮮の楽浪を経て伝わったとか、あるいは倭人の先祖が中国の江南地方から日本列島へ移住した時、稲作とともに伝わったとか言われています。
(参考資料:絹の知識百科)
菊の被綿(きせ綿)
日本には植物にまつわる節句が三つあります。
三月三日の桃の節句、五月五日の菖蒲の節句、そして九月九日の重陽の節句で、重陽の節句には菊の花を観賞し長寿を願います。
菊は平安時代に唐代の菊が伝わり、京都で栽培が行われるようになりました。貴族社会で不老長寿の薬として重陽の節句に、菊の花を浮かべた酒を飲み交わし菊を題材に漢詩や和歌を作って遊んだと言われています。
また「菊の被綿」という行事もありました。菊の花に真綿をかぶせて霜よけとし、その香りと露とを真綿に移して体を拭くと肌が美しくなり、若返るというのも中国から伝わり「枕草子」や「紫式部日記」に登場するのですが、これは菊が長寿の薬として当時貴重であったということかもしれません。
枕草子の清少納言や源氏物語の紫式部も、菊の朝露に濡れた真綿できっとお肌のお手入れをしたことでしょう。
清少納言枕草子
正月一日、三月三日は、いとうららかなる。 五月五日は、曇り暮らしたる。 七月七日は、曇り暮らして、夕方は晴れたる空に、月いと明く、星の数も見えたる。 九月九日は、暁方より雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやれたる。つとめてはやみにたれど、なほ曇りて、ややもせば降り落ちぬ べく見えたるも、をかし。
補注:九月九日は重陽の節句、菊は仙境の花ということで、長寿を願う意味で、八日の夕方菊花に綿をかぶせ、九日、露に濡れた綿で身の老いを拭いて捨てる風習が当時あった。(綿は真綿のこと)
<現代語訳>
正月一日は、三月三日は、ほんにうららかな日和。
五月五日は、一日中曇って過ぎた、しっとりした感じ。
七月七日は、日のあるうちは曇って気をもませ、夕方からはからりと晴れた空に、月の光もさわやかに澄み、星が一つ一つ数えられるといったお天気。
九月九日は、明け方まだ暗いころから、雨がすこし降って、菊の露もびっしり置き、菊の着せ綿などもしずくするほど濡れて、花の移り香もそのせいでいっそう香り高い、といった風情。夜来の雨も、翌朝早くにもうやんだけれども、まだ空はどんより曇っていて、ややもするとまた降り落ちて来そうな空模様も、風情がある。
紫式部源氏物語
古典文学にも「枕草子」「源氏物語」「弁内侍日記」などをはじめとして所見が多く中でもよく知られたものとしては「紫式部日記」「紫式部集」の両方に見られる次の逸話が挙げられる。
すなわち紫式部が藤原道長の北の方 源倫子より菊の被綿を送られて感激し菊の露若ゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむと詠んだというものである。
宮中の重陽の行事としては平安前期の宇多天皇のころに始まったが、当時は特に細かい決まりがあったわけではないらしい。
しかし近世に入ると「白菊には黄色の綿を、また黄色の菊には赤い綿を、赤い菊には白い綿を覆う」との記述が「後水尾院当時年中行事 などに見えるようになり、さらに綿の上にも小さな菊綿を「蘂」(しべ)のように載せることになっている。
重陽の日に菊の咲かない年は綿で菊の花をかたどる。京都御所の御物の中に、英照皇太后遺物として嘉永二年(1849年)の重陽の節句に孝明天皇より御拝領の「きせ綿」ニ包が保存され、一つは赤・黄・白の各三(直径 八センチ)もう一つには赤・黄・白計約五十(直径二センチ)が包まれているという。
古事記下巻712年(仁徳天皇)
奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫になり、一度は鼓(繭のこと)になり、一度は飛ぶ鳥になりて、三色に變わる奇しき虫あり。 (…奴理能美之所養虫、一度爲匐虫、一度爲鼓、一度爲飛虫、有變三色之奇虫)
「古事記」下巻になると、最初に仁徳天皇が登場します。
この天皇は儒教的為政者として描かれており、民家の煙突から煙が立ち上らないのをみて税金を取るのをやめ、宮殿を荒れるにまかせたとされています。
三年後、国中の炉辺からふたたび煙が立つようになったのを見て、ようやく租税と夫役を復活させました。一方ロマンスの多い天皇でもあり、あるとき、皇后は嫉妬のあまり、不思議な虫を見に行くという口実で宮廷を抜け出します。その虫は、初めは這(は)う虫で、つぎに繭になり、最後には飛ぶ虫になるという。
おそらくこの時代に蚕が初めて国内に輸入されたのではないかと考えます。
万葉集
筑波嶺(つくはね)の、新桑(にひぐは)繭(まよ)の、衣(きぬ)はあれど、君が御衣(みけし)し、あやに着欲しも
意味: 筑波嶺(つくはね)の、新桑(にひぐは)で作った絹の衣は、それはそれで素敵だけれ ど。あなたさまの衣を身につけてみたいものですわ、とっても。
「新桑(にひぐは)」は、桑(くは)の新芽のことです。新桑(にひぐは)で育てた蚕で作られ た絹の衣は高級品だったのですね。繭(まよ)は、蚕のまゆのことです。 「筑波嶺(つくはね)」は筑波山のことです。桑の新芽をつみながら、歌った娘さんの恋 の歌なのでしょうか。 万葉集では(まゆ)のことを(まよ)と呼んでいたなんて、一つお利口になりました。
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